ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第8章


 「眠れない……」
ルビーはベッドの中でじっと白い幾何学模様の入った天井を見つめていた。その幅は部屋の端から中央に向かって細くなり、そこに吊り下げられたシャンデリアと一体化して見事なまでに美の演出が施されている。

――少し休んでいろ。あとでもっといいものを持って来てやる

男は言った。しかし……。
(いいものって何だろう? 新しい銃? 新しい罰? それとも……)
風が唸りを上げている。閉め切った部屋の中まで響いて来る。子供は恐ろしくなって毛布を引っ張ると顔を埋めた。華やかだったパーティーの名残のようにシャンデリアの淡いキャンドルが煌く。
「ギル……」
部屋には一つアンティークな時計が掛けられていた。が、ルビーにはそれを読むことが出来ない。ただ、針が動いていること。その先端が指し示す位置が変化していることで時の経過を知る。

(ぼくはずっと夢を見ているのだ。終わらない運命の時の狭間で……)
淡い幻想の霧の中を過ぎる馬車……。その時、彼は運命の人と共存していた。しかし、彼は差し伸べてくれたその人の手を掴み損ねた。そして運命は別れ、走り去って行く……。遠くへ……ずっと遠くの、彼の手が届かない所へ……。
「会いたい……」
涙のあとが消える前にまた新たな涙がそこに伝う。その時、彼は一人のピアニストであり、作曲家だった。呼応する魂の片鱗……。空回りする運命の糸に時間軸が絡まる。それを解きほぐせないまま、彼はいつまでも闇の迷路から出られないでいた。

「ルビー」
呼ばれてふと彼は現実に帰って来る。
「ノイエハルト婦人が下さったんだ」
銀髪の男が差し出したそれは、星やハートや花の形をしたキャンディーだった。
「きれい……」
ルビーはうっとりと見とれた。しかし、手を出して来る様子はない。
「どうした? これには毒なんか入ってないぞ」
「うん」
ルビーはさっき自分が毒殺されそうになったことも知らず、ハート型のキャンディーを一つ摘むとうれしそうに口に入れた。
「甘い……」
そう言って微かに笑う。髪も服装も乱れていたが、彼は相変わらず愛らしい天使だった。

「もう、ぼくを殺さない?」
「……」
男は答えなかった。ルビーはじっと彼が手にしたキャンディーボックスを見つめた。開いたままのそこに並ぶ甘いメルヘンの形を……。
「ノイエハルト婦人に感謝するんだな。彼女はおまえをとても気に入ったらしい」
装飾が施されたキャンディーの入れ物に蓋をしてギルフォートは言った。実際、ジェラードに取り成しくれたのは彼女だった。そして、彼女の要望を伝える。

「婦人は、おまえを養子にしたいそうだ」
「養子?」
きょとんとした顔で見上げるルビー。
「そうだ。婦人と一緒にここで暮らす。婦人は闇の世界の実力者だ。だが、実際の仕事にはほとんど関与していない。実働的な仕事はすべてグルドのような下部組織が担当しているからだ」
「よくわからない」
子供は彼の背後にある厚いドアの彫り物を見ていた。
「ここにいれば、おまえはもう人殺しをする必要はない」
それを聞いて、彼ははっとしたように男の顔を見上げた。目と目が合って男が頷く。
「そうだ。おまえはただ、毎日ピアノを弾いたり、花を摘んだりして婦人に気に入られるように振舞っていればいいんだ。そうしたら、彼女はおまえを可愛がってくれるだろう」
(一生、彼女の愛玩品として……)

「でも、そうしたらギルは? エレーゼも一緒に住む?」
不安そうな顔でルビーが訊いた。
「いや。そうしたら、もうほとんど会うことはないだろう。時々はこうしたパーティーで顔を合わせることはあるかもしれないが、生きる場所が違うから……」
説得するように話すギルフォートの言葉を途中で遮ってルビーが叫ぶ。
「いやだ!」
「ルビー……」
「いやだよ。ギルやエレーゼと会えなくなるなんて……」
泣きながら訴える子供の肩に手を置いてギルフォートは言った。
「戻れば地獄だ」
ここに残れば少しは長生き出来るかもしれないと考えてのことだった。が、ルビーはそれを否定した。

「それでも! ぼくはあなたに付いて行く。言ったじゃないか。もう,ぼくの居場所はグルドにしか、あなたの側にしかないんだ。確かにここは素敵な所だけど、ぼくはあなたに教えられてここまで来た。あなたが全部教えてくれたんだ。それまでぼくが出来なかったすべてのことを……。あなたに言われた通りに練習して、長く走ることも、素早く動いたり、プールで泳いだり、鉄棒もロープも受け身の仕方も、全部あなたから教わった。何にも出来なかったぼくをここまで育ててくれたのはギルなんだもの。今なら昔、ぼくをいじめていた奴らにだって負けない。ぼくはもう誰にも負けないんだから……。だから、あなたと一緒に行く。そして、もっと練習して世界一強くなるんだ。だから、お願い。ぼくを一緒に連れて行って……。あなたが目指す場所へ……」
彼は真剣だった。男はふっと目を逸らす。
「荊の道へ……か?」
ぶつかる視線。ルビーはじっと男を見つめて頷いた。
「何処へでもだよ」
決意した瞳。
「わかった。なら、付いて来い」
足早に去る男のあとを追って、ルビーは急いで脇にあった上着を取ると慌てて部屋を出て行った。

「エレーゼは?」
追いついて来たルビーが訊いた。
「先に帰った」
「ぼくも帰れる?」
「ああ。婦人に挨拶をしたら……」
「彼女は怒るかしら?」
「いや。彼女はそんな度量の小さい人物ではない。だが……」
そう言って男は足を止めた。そして、他の者には聞き取れないような声で囁く。
「おれに付いて来るなら覚悟を決めろ。おれは敵が多い人間だ。他の誰にも気を許すな。誰のことも信用するな。たとえ、それがおれやジェラードであっても……」
「わかった。でも、ギルのことは信じるよ。だって、あなたがいなければ、ぼくは生きて来れなかったもの」
「……なら、好きにしろ」
そう言うと男は歩き始める。が、まだそこから動かない子供を振り返って言った。
「おれの側から離れるな」
ルビーはうれしそうに頷くと急いで彼に付いて行った。


 ルビーの決意を聞いて婦人はがっかりしたようだった。が、それでも笑顔を作って見送ってくれた。
「また、いつでも遊びにいらしてね。私はいつでもあなたを歓迎しますわ」
「ありがとう。フラウ ノイエハルト。あなたもどうかお元気で」
ルビーも婦人に挨拶するとギルフォートが運転する車に乗って館を出た。ジェラードは何事もなかったようにルビーと接した。が、車に同乗することはなく、そこからまた仕事のために別の車で空港へ向かった。

車はアウトバーンを北上し、ドレスデンを目指していた。ルビーは後部座席で眠っている。最近では制限速度が設けられている道路も増えて来たが、見通しのよいこの辺りではまだその規制は緩い。だが、彼は安全圏である時速150キロをキープしていた。車は順調に流れている。この分ならあと40分もしないうちに目的地へ着くだろう。走り慣れた道。エンジン音も快調だ。が、彼はふとバックミラーに映る後続の車の動きが不自然なことに気がついた。大分前から彼の車に付かず離れずぴったりと付いて来ている。少し揺さぶりを掛けてみた。思った通り、速度を上げるとその車もスピードを上げて来た。緩めてもまた同様だ。黒塗りのそのベンツは測ったように一定の車間距離を保とうとしている。
「ふん。気に入らないな」
彼はアクセルを踏んでスピードをあげると、いきなり追い越し車線へ移り、振り切ろうとした。が、相手も同じように路線を換え、追いついて来る。時速は220キロ。微かに車体が軋む。が、たとえ300キロ以上出したとしてもがたいの良いこの車の機能自体に問題はない。

「何? もう着いたの?」
ルビーが寝惚け眼を手でこすりながら起き上がる。
「伏せてろ。狙われてる」
鋭い口調で男は言った。
「え?」
ルビーは身を低くしてそっとバックミラーを覗く。黒塗りのベンツが近づいていた。乗っているのはダークスーツの男3人。そして、助手席の窓から覗く円筒形の銃身が光る。
「ギル!」
「掴まってろ!」
男は急速にハンドルを切るとすれすれで銃弾をかわし、更に反対方向へ切り返して中央車線へ出た。それでも敵はスピードを上げ、撃って来る。その銃弾が車体ぎりぎりをかすめて行く。そのうちの1発が後部座席の窓に当たった。ガラスは蜘蛛の巣状に罅割れて中央に止まった弾丸が風圧で飛ばされた。車の窓はすべて防弾ガラスで出来ていた。が、タイヤやエンジンを撃ち抜かれれば終わりだ。しかもこのスピード。一度ハンドル操作を誤まれば柵のない高速道路の崖から落下してしまう。ルビーは自分の銃に弾丸を込めた。
(怖い……。でも、ギルは運転で忙しい。ぼくがやらなくちゃ……)
ルビーはそっと窓を開こうとした。

「よせ! おまえでは無理だ」
男が言った。
「でも……」
走行中の車からの狙撃など教えていない。これだけスピードが出ているのだ。万が一にも事故を起こせば関係のない一般車両を巻き込んでしまう。それだけは何としても避けなければ……。そして、その任をルビーに背負わせるのは酷過ぎた。が、状況は最悪の結果へと向かっていた。反対車線から新手の敵が現れたのだ。相手は大型の火器を構えている。
「ギル!」
「わかっている。連中は何が何でもおれ達を始末したいようだな」
と言って、男は細かくハンドルを切りながら言った。

「いいか? 頭を下げてシートにしがみついてろ! 強行突破する」
言うと同時にガクンと車体が揺れて、猛加速。すれ違いざまに撃って来た砲弾が後部座席の窓ガラスを粉砕し、反対側へ突き抜ける。ルビーの背に飛び散ったガラス片が落ちた。が、気にしている余裕はない。スピードのGと風圧で僅かに浮き上がった車体がコントロールを失って車線を越え、後続の車と接触しそうになる。それをぎりぎりのところで切り返し、再び追い越し車線へ……。そこへ先程のベンツが追い付いて再び発砲。プシュッといやな音を立てた。後輪をやられハンドルを取られる。スピードが落ちた。このままでは追いつかれる。ギルフォートは必死に車を制御しながらチャンスを覗った。周囲には広大な畑と森。警察車両の姿はない。そして、一般車両も今は途切れた。

前方にカーブが見えた。そこが勝負どころだ。ルビーも起き上がり、銃を構え直す。
(いつでも撃てるようにしておくんだ)
ガラスが吹き飛んでしまったのでそこから狙いをつけることも出来た。ルビーはドアに寄るとチャンスを覗う。車は少しがたついていた。タイヤを1つ失ったのでバランスが悪い。が、それでもギルフォートはぎりぎり3つのタイヤを使って制御し続ける。が。それはほとんど片輪走行に近かった。そんなことでは長くは持たない。彼は一気に勝負するつもりだった。カーブの手前で急激な方向転換をし、すれ違いざまに手榴弾を投下。車両を爆破する。強引なやり方だが、向こうが先に攻撃を仕掛けて来たのだ。当然の報いだ。しかし、そうはならなかった。番狂わせが起きたのだ。カーブの手前に突然大型のトラクターが現れた。

「なに?」
先程までは視界になかった。それは道路の下の畑。崖から上って来たに違いなかった。が、それは単なる農民の物ではない。明らかに彼らの車の妨害を仕掛けて来たからだ。突然前方に飛び出したそれはこちらに向かって突っ込んで来た。ギルフォートは何とか避けようとするが、角の部分が接触した。かなりの衝撃が加わり、車は車線を外れた。そして、弾みで後方のドアが開いた。
「ルビー!」
そこにいた彼が風圧で飛ばされた。いくらスピードが落ちていたといってもメーターは120キロを越えている。
「くそっ!」
ギルフォートは強引に方向転換するとアクセルを踏んだ。そして、窓を開くと手榴弾の安全ピンを抜いた。

 ルビーは車から飛ばされて崖の下に落下した。が、幸いそこは畑だった。集められていた枯れ草の山、柔らかい土、そして、咄嗟に取った受け身の姿勢が彼を救った。それでも当然衝撃がなかった訳ではない。一瞬、何が起きたのか自分でも判断がつかなかった。
「なに? どうしてぼくはここにいるの?」
空が見えた。そして、しっかりと手に抱えたままの銃……。彼ははっとして体を起こす。耳の中に響くエンジン音。
「ギル!」
パッと立ち上がって頭上を見上げる。すると突然爆発音が響いた。数十メートルは離れている。が、振動はここまで伝わった。そして噴出する煙……。ルビーはその崖を上った。そして、5メートル程行くと道路が見えた。数十メートル向こうで大破した車が燃えていた。1台は彼らのことを執拗に追って来た黒いベンツ。そして、もう1台はギルフォートの白いBMWだ。
「ギル!」
ルビーは叫んだ。が、何処にもその姿は見当たらない。そして、返事もない。
「ギル!」
絶叫にも近い悲痛な声……。そこへまた別の車のエンジン音が近づいて来た。ルビーはその車に助けを求めようと更に崖をよじ登った。が、その車はさっき反対車線から攻撃して来た敵の車だった。Uターンして戻って来たのだ。

(あいつらのせいで……!)
ルビーは拳銃を構えた。そしてその車を撃った。
「畜生っ! 畜生っ! 畜生―っ!」
何発も何発も憎しみの念を込めて撃った。そして、そのうちの2発がタイヤに命中した。車は安定を失い、ふらふらと迷走して止まった。そして出て来る3人の男。彼らも皆、銃を持っていた。男達は、少し離れた道路の淵から子供を見下ろす。
「どうして? 何故ぼく達を殺そうとするの? ぼく達、何も悪いことなんかしていないのに……。どうして?」
ルビーが問う。
「何もしていないだって? ヨハンを殺しておいて……」
黒眼鏡の男が応える。
「だってヨハンは悪い奴なんだ! だから……」
「ああ。そうだろうとも。だからこそ、まだ十分使い道があったのに……」
「まったく惜しい男を失くしたよ。おまえ達のせいで大した損失だ」
「そんな……」
銃を構えたまま動けないルビーに向けて男が発砲する。その銃弾がルビーの肩先を掠める。

――おれに付いて来るなら地獄だ

「ギル……」
涙が流れた。
「それでも、ぼくは……ぼくは……あなたのために……!」
ルビーは撃った。弾丸は男の構えた銃に当たり弾き飛ばした。
「貴様っ! 子供だからって容赦はしないぞ」
彼らが一斉に銃を向ける。しかしルビーは逃げなかった。そこでキッと男達を見据え拳銃を構え直す。そして発砲。男達も撃って来た。彼は怯まなかった。続けて引き金を引く。が……。ただカチカチと音がするだけで弾が出ない。
「ハハハ。どうやら運と一緒に弾も切れたようだね、坊や」
醜悪な笑いを浮かべて男が言った。
(どうしよう? 弾が……)
「弾が出ない」
蒼白な顔で引き金を引き続ける。
「いくらやっても同じだよ。もう終わりにしようじゃないか」
眼鏡の男が言った。そして,そのトリガーに指が掛かった時、ルビーの銃が火を吹いた。
「何! ま……さか……」
男の手から銃が落ち、ゆっくりとその体が崩れ、崖の下へ滑り落ちた。

「あ……あ……!」
自分で撃った念の力に驚いてルビーは思わずあとずさる。
「このガキ……!」
二人の男が逆上し、子供に銃口を向けた。が、ルビーは動揺し動けない。と、突然、銃声と共に一人の男の銃が飛び、もう一人の胸が血に染まった。
「貴様……!」
銃を弾かれた男が上ずった声で叫ぶ。が、みなまで言わせずその男も銃弾によって口を塞がれた。

「ギル……」
背後に銀髪の男が立っていた。
「ギル!」
ルビーが転びそうな勢いで駆けて行って彼に抱きつく。
「生きていたんだね? 本当に生きて……」
泣きじゃくる子供の顎をそっと2本の指で持ち上げてギルフォートは言った。
「それはこっちの台詞だ。本当に悪運の強い奴だ」
子供は土と枯れ草に塗れていたが、目立った怪我はない。
「ぼく、心配だったの。すごく心配したんだ」
ルビーはじっと男を見つめて言った。
「どうせなら自分の心配をしたらどうだ? いつも言っているだろう? 数は大事なんだと……。弾の数を忘れては命取りになる」
しかし、子供は激しく首を横に振って否定した。
「だって、仕方なかったんだ。弾なんか全部なくなっても構わない。でも、あなたを亡くすのはいや! ぼくを連れて行ってくれるって約束したでしょう?」
彼は男の腕をギュッと掴んで言った。
「おれに付いて来れば地獄だと言った筈だぞ」
そう言ってギルフォートはすっと視線を逸らす。
「構わない……。ぼくは決めたんだもの」
ルビーは言った。
「フラウ ノイエハルトのところに残った方がよかったんじゃないのか? 婦人はケーキ作りが得意だそうだ」
「いらないよ。お菓子なら、ギルがくれるもん」
澄ました顔でルビーは言った。
「こいつ」
チョンとその頬を指で突くと彼は微笑した。男が笑ったのを見て、ルビーもうれしそうな顔をした。それから、少し真面目な表情をして言う。
「ギル……。ぼく、強くなるよ。うんと強くなって、いつかあなたを守ってあげる」
「ハハ。そいつは頼もしいな」

――ぼく、うんと強くなって、いつかおにいちゃんを守ってあげるからね

「どうして笑うの? 本当だよ。本当にぼく……」
不服そうに口を尖らせて言うルビーの頭を軽く撫でて男は言った。
「嘘じゃないよ。今日はおまえと一緒で本当によかったと思ってる」
「本当? ぼく、あなたの役に立てた?」
パッと顔を輝かせて言う。
「ああ」
ルビーはそれを聞いて満足した。ギルフォート グレイス。彼に認めてもらえることが、今のルビーにとってこの上ない喜びだった。
「本当によかった……」
彼に寄り掛かったままルビーは意識を失った。張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。遠くでサイレン音が響いている。
「ルビー……」
子供を支えようとして男は顔を歪めた。爆発の寸前、崖下に飛び降りた際、ギルフォートは負傷していた。だが、それを子供に知らせる必要はない。ルビーは自分の責務以上のことを果たした。これならジェラードも文句のつけようがないだろう。だが、これからだ。ルビーにとって本当の試練が訪れるのは……。